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BunDoku哲学カフェ

大分朝読書コミュニティBunDoku主催による「BunDoku哲学カフェ」の公式ブログです。

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哲学カフェとは

Posted by シミズ on   0 comments

いつも私が参考にし、かつ尊敬している福岡哲学カフェ主催のRAMさんの言葉を
いくつか引用します。


***
人生の文脈を交わす会についても、
自分の生きづらさを他者との交差という仕方で向き合うというのはまさに、
生きづらさというテクストを作者である私の読解から解放するという意味を持つ。


哲学カフェの自己の再読解でもそうなんだけれど、
脱構築的というか、自己の能力というエクリチュールを
私の読解から解放するという意義を置いている。
僕にとっては解放の場であり生活の中、社会の中の風穴だと言える。


脱帰属的生


何かに帰属するのではなくあくまで私が私でありながら、
他者と関わるという仕方が「交差させる(交わす)」ということであり、
他者と共に一人で生きていくということを表している


マイノリティや生きづらさを抱えている人たち、孤独な人たちが繋がる、
一体となるコミュニテイや活動はまま目にするけれど僕はあまり得意ではない。
マイノリティが障害を乗り越える方法が団結するしかないというのは
個人的には悲しさを覚える。


他者と共に一人で生きるというのはキーワードだろうな。


僕自身、哲学カフェを開催している目的は文脈の生成であると言える。
それは問いに対する文脈の生成でもあるし、
自身の世界観からの新たな文脈の生成でもある。
そしてなによりは、場を設けるということ、時間を設けるということを通して
自己それ自体の解釈を再生産することでもある。


生きづらさを肯定すること。
処世術という社会性によって自己を規定し抑圧するのではなく、
生きづらさの中から自分独自の文脈を生成し、
そして生きていくということ。
少し胸が踊っている。


自分にとって哲学カフェという場の創造は、
個人にとってのその生活の中における文脈の生成であり、
だから有用性を批判しながらも既存のコンテクストからの解放による
救済的な意味を強く感じている。


僕は子ども自体すごく好きだし、
もし自分に子どもが出来たらかなり溺愛するだろうと思うけれど、
自分が自分の子どもを幸せに出来る自信がない。
むしろ不幸(だと感じさせる)な人生を送らせるような気がしてならない。
だから子どもは欲しいけれど子どもは欲しくない。


自分の子どもを絶対に幸せにできる保証なんてないのに、
なぜ子どもを産めるんだろう?というのが最近自分の中で考えていること。


RAMさんのツイッター


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