BunDoku哲学カフェ

大分朝読書コミュニティBunDoku主催による「BunDoku哲学カフェ」の公式ブログです。

テーマはどのようにして決まるのか?

Posted by シミズ on   0 comments


「助けて」、それは誰の言葉でもない、君の言葉だ。
やっと「助けて」と言えるようになった、それは君の力だ。
死にかけても動物は立ち上がる。
人間は死にかけたら助けを求めて声を上げる。
立ち上がることも、声を上げることも、同様に真実だ。

歴史学者 田中希生




一応このブログはBunDoku哲学カフェの公式ブログということになっているが、広報の機能を除いては、ファシリテーターのただの独り言なので、まぎらわしいが会そのものの特性や方向性を表すものではないし、自分の希望を述べているのではない。運営の実際とは矛盾があるかもしれない。

哲学カフェのあり方については、これが正しいというのも、これがスタンダードだというのもない。同じスタイルで臨んでも、参加者の顔ぶれが変われば違ったものになるし、選んだテーマによっても変わるし、お店などの場所の雰囲気やファシリテーターの進め方、キャラクターによっても変わる。

正しいスタイルというのはないが、ただこうはしたくないというのはあって、そのために冒頭時間をかけてルールやコンセプトの説明をする。たとえば一人の人が独占的に延々と喋るような状態や、他を否定したり威圧する恫喝めいた言葉、自慢話や知識の披歴など、つまりここには「聴く」ということが欠けている。

自分自身、哲学カフェのファシリテーターというものをやり始めた頃は、とんでもなく疲労していた。これは自分の人生に「聴く」という行為が欠けていたからだと思った。それは傲慢さの表れであったし、他者との関係性の構築に当たっての極端な歪みであり障害だと思った。生き方を変えようと切に思ったものだ。

「聴く」という行為もなかなか困難なもので、生(き)のままの声をそのまま受け入れたいと思っているが、誰が言ったとか、何を背景にしているとか、根拠とか、つまらない対話の外に意識が向くことがある。これは男性に多い傾向だが、「誰々がこう言っている」や「〇〇学ではこうなっている」など、つまり固有名詞が飛び交う。これは話しを端折れるので便利だからである一方、それを知っている人と知らない人とを大げさに言えば分断してしまうこともあるから、僕はなるべく使わないようにしている。固有名詞の力はほんとにすごい。

以前、AI(人工知能)をテーマにしたことがあって、それは非常に盛り上がって楽しかった回だったが、一方でこれは哲学カフェなのか?という疑問があって、それは未知より既知に対して話される言葉が多かったためであり、そのなかでも数少ない未知の言葉としては「なんでみんなAIが人間を超えることに対して躍起になっているのか?」だった。
AI第二弾を望む声が多いのではあるが、いかに未知に向かって対話ができるかのテーマ設定が必要だろう。お互いの既知を確認し合う行為(それはそれで楽しいけれど)、そこはスキップしたいなあと思うのです。


本題。
テーマはどうやって決めているのか、誰が決めているのか聞かれることが多いのですが、自分とファシリのぶんさんとで決めています。独断と偏見といってしまえば、それまでですが、(振り返ってみれば)わたしのなかの基準は一応ありまして、それは簡単すぎない「歯ごたえ」、誰もが考えられる考えたことのある「普遍性」でしょうか。いま、思いつきで書いたのですけど。避けているテーマとしては、特定の社会問題や政治問題。そこに哲学的普遍性があれば別ですが。

自分個人としては、なにか当人にとっての「切実さ」が引き出せれば、いいなあと思っているんです。そのためには場の安全性、安心感が必要です。マナーは大前提ですけど、これは言ってはいけないといった自主規制や、社交を重視した表面的な取り繕いを超えたいなと。そういう工夫を自分とぶんさんは運営側としていろいろしているつもりです。

あとアンケートなどで聞いた参加者のとりあげてほしいテーマをそのまま使うことも最近多くなっていますが、とりあげた回はたいがいその当人が不在なのが美しいなあと思っています。

来年もBunDoku哲学カフェは月1回のペースで開催します。興味のあるテーマなどありましたら参加してみてください。



スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する